「電源抜いちまうかもう」

だって戻れない。嗚呼。帰れない。嗚呼。時限式カラミティ。

おそ松さん関連 メディア情報自分用まとめ【更新あきらめました】

ウェブ上の記事

おそ松さん』はTVアニメ復活の“のろし”となるか?

zasshi.news.yahoo.co.jp
【魚拓】『おそ松さん』はTVアニメ復活の“のろし”となるか? 社会現象となった理由を徹底解剖 (リアルサウンド) - Yahoo!ニュース

やっときちんとした評論に出会えた気がする。「刺してくる」ってのを「批判性」と言えばよかったのだな。あと個性を必要としない社会について。今まで「松ブーム以降女性向け日常系が増える」みたいな記事とか読んで「違うんだよ!ころされたいんだよ!!」って叫んでたのが、上手く言葉になっている感じ。やっぱプロの人が書く文は違うね。

おそ松さん』ワールドがつくる、昭和90年の音楽シーンとは | アニメイトTV

www.animate.tv
全力バタンキューの作詞作曲者平成生まれってマジかよ……。あとはコナミにぴっぴの依頼が行った経緯など。こんなにしっかりしたインタビュー無料でよめるのね。

編集が生んだ「おそ松さん」の笑い 藤田陽一監督+編集・坂本久美子 座談会

animeanime.jp
「間」の作り方、絵を動かす人のはなし。

雑誌

買った雑誌に何が書いてあったかのメモを残すとこにする。
内容と情報について。あとで書く。

クイック・ジャパン124

クイック・ジャパン124

anan (アンアン) 2016/05/18号

anan (アンアン) 2016/05/18号

おそ松くん・おそ松さん「チョロ松」の名前の由来と赤塚先生の想い

松ロスに陥る間もなく
怒涛のコラボやら特集やら、という感じですね。
なごみノベライズが話題のダ・ヴィンチからの話題です。

なごみノベライズについては、なごみ研究部に任せるとして
私は『六つ子なだけに六つのトリビア』コラムで気になった
「六つ子の命名は超テキトー!?」という記事について
反論というか……再検証させていただきたいと思います。

長男の「おそ松」は食事の後の「お粗末さまでした」が由来と推測される。二男の「カラ松」は「カラマツ」という針葉樹(公認HPによると「空っぽ」説もあり)、四男の「一松」は「市松模様」、五男の「十四松」は鳥のジュウシマツからの命名だろうか。六つ子全員がダジャレの命名だと思われがちだが、三男の「チョロ松」と末っ子の「トド松」についてはすぐに言葉が浮かばない。公認HPによると、チョロ松は「チョロチョロすばしっこいのが特徴」とあり、トド松は「トドのつまりの末っ子」とある。さすが赤塚先生、超テキトーである。

ダ・ヴィンチ 2016年5月号 36ページ

六つ子の命名はすべてダジャレだと思っていた私は
これを読んで頭にハテナマークがポポポンと浮かびました。

まず違和感を覚えたのは
「あれ?トドマツも木の名前だよね?」ということ。

トドマツ(Abies sachalinensis)は、マツ科モミ属の樹木である。
マツと付くものの、いわゆるマツ(松、英語:pine)が属するマツ属 (Pinus)ではなく、モミ属 (Abies) に分類される。
北海道のほぼ全土と千島列島南部、サハリン、カムチャツカ半島針広混交林から亜寒帯林にかけて分布する。

トドマツ - Wikipedia

f:id:kuga80:20160408001605p:plain

そうです。やっぱりトドマツという木がありました。
というかそもそもそこから派生して
「材木松」なんて呼称もファンの間で生まれてるのに……。

カラ松がカラマツの木と「空っぽ」をふたつかけたダジャレなように
トド松もトドマツの木と「トドのつまり」をかけた名前とみるのが妥当でしょう。

この時点で、記事の「赤塚先生はテキトーに名づけをした」という
結論が崩れています。

そこで気になるのが三男チョロ松。
ここまできたら全部ダジャレで(というか元々あった日本語から)
つけているのが妥当でしょうし
私もそう思っていたので、改めて調べてみました。

まずは松野チョロ松以外で出てくるのがwikipediaの「チョロ松」の項ですが

チョロ松(チョロまつ)は、猿まわしを演じるニホンザルの名前。
初代チョロ松(1977年-2007年1月14日)。 <中略> 1987年にソニーウォークマンのテレビCMに出演し、「音楽を聴きながら瞑想するサル」として話題になった。

チョロ松 - Wikipedia

こちらは初代が1977年で、おそ松くん連載開始が1962年なので候補としては除外。

次に見つけたのが、こちらの知恵袋。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

こちらの回答で

○○松という名前は昔商家の丁稚奉公に上がると、本名の一字に「松」や「吉」を付けた名前で呼ばれたのです。そして仕事で失敗などすると「○○松」が「ちょろ松」などと言って叱られたわけです。

<中略>
「おそまつ君」は関係ないでしょう。おそまつ君が連載されたのは昭和30年代後半です。私ら戦後生まれのものはそれ以前の30年頃には「ちょろ松」と言って、人を馬鹿にする時に使っていましたから・・・

ちょろちょろする子供を「ちょろまつ」と言いま... - 日本語 | Yahoo!知恵袋

というものがありました。ソースとしては心もとないですが
これで方言や俗語として「ちょろ松」という言い回しがある可能性が高まりました。

さらに調べていたところ宇和島方言入門というサイトにさらに記述を発見。

接尾語で、人を侮蔑、あるいは馬鹿にしていいう言葉。良い表現ではないが
~さく、~まつ、~たれ、~たん、~さく。
例・ぼけさく。ちょろまつ。ばかたれ。あほたん。いやみさく。

宇和島方言入門

ソースは宇和島弁についての記述ですが
(リンク元に引用出典が明記されているようです)
もう少し広域で、古くから使われている言葉のような印象を受けました。

また、Twitterでもフォロワーのkmkさんから情報をいただきました。




ちなみに赤塚不二夫満州引き上げ後に
奈良の大和郡山に3年間住んでいたとのこと。*1

私は方言の体系についても赤塚研究についても
ほとんど未タッチで知識がない状態ですが
それでも、やはり元々あった日本語から取ったという説が
有力に思えます。

kmkさんのツイートから引用をもう少し。


「おそ松」という名前もそうですが、決してプラスの言葉ではないけれども
愛嬌のある優しさと柔らかさを感じる名前ですよね。
チビだからチビ太、嫌味だからイヤミ、ちょろまつなチョロ松。
こう並べてみると、この言葉が由来と考えた方がしっくりきます。

もちろん、赤塚不二夫公認サイトの表記は、ダ・ヴィンチで引用している通り。
本当にこの言葉が由来かはわかりません。

ただね、カラ松でカラマツを引っ張ってくるならば
「とどまつ」「ちょろまつ」という言葉についても
もう少し調べるべきだと思うのですよ。*2

以上、トド松とチョロ松の名前の由来と思われる言葉についてでした。

「ちょろまつ」について、まだ情報ありましたら
コメント欄やTwitterの@9ga80_klpまで情報くださいませ。
個人的に気になるので知りたいだけですが。笑

【4/8 4:30追記】
シェー!!の自叙伝―ぼくとおそ松くん (1966年)にて
6つ子の名付け方について赤塚不二夫本人の文で語られているとの情報。
(というか以前RTかなんかで回ってて見かけたことあったわ)
ちょっと後日図書館などで調べて付記します。

(2016/8/27 記事タイトルを『チョロ松はテキトーにつけた名前なんかじゃないだろう』から変更)

*1:wikiの自叙伝引用より

*2:大寺明さんという方がライターのようですが

満足だ、おそ松さん!!!

【おそ松さん25話(最終回)感想】
【考察ではなくただの感想です】

いやぁ、終わってしまいましたね。
おセンチにならないで笑い飛ばせてよかったな。
この作品が23話かけて描いてきたものの結末のひとつは
やっぱり24話で示されたもので
でも、そんなことはさて置いておいて
最後はハチャメチャ笑って終われてよかった。
また前回みたいに途中で実況できなくなるかと思ったら
ずっとツッコミ入れずにはいられない状況だったしw

むしろ25話はある種のエピローグOVA的な
そんな風に捉えてもいいのかなとすら思ったよ。
彼らの成長や決断も、きちんと受け止めたいという意味でね。

でも関係性の変化とか
(カラ松の夢に一松だけ同調したのはホント笑ったw)
視聴者サービス的な過去キャラクターの描写とか
確かに積み重ねた時間は、あったんだなって。

それにしても「手紙の発火」という違和感だけで
一気にシリアスからギャグに引き戻す手法はすごい。
まぁ、手紙燃えたらギャグだもんな。
逆に言うと、それを引き立てるために
24話は地続きの人間世界でしかなかったと。
(この辺の考えはあとでまたゆっくりまとめたいな)

もちろん、ギャグとして最高に笑わせてもらったけど
「感傷に浸るのはやめよう」とか
「すぐ逃げんな!」「まだ行ける!」とか
引っかかる(響く)言葉もあったりして。
何がなんの比喩かなんてそんなの考えてる余裕なかったけどね!
ただただ事象が面白くて笑ってたよ。

十四松の彼女ちゃんが出てきたのは嬉しかったな。
ファンサービスだなってのは明らかだったし
物語はなかったけど、それでも。

なんか、最高にナンセンスに終わってくれてよかった。
やっぱり松に笑わせてほしかったんだな。
シリアスはpixivに任せた!笑

もちろん、24話の物語を公式がやったことは
とても大きな意味があることだけど。

書き下ろしEDは……ズルいね。
カーテンコールだった。
幕が下りてから、またみんながワイワイ出てきて。
楽しい作品だったね。みんな楽しかった。

松代が第一声なのもよかった。
松代。みんな大好き我らがマミー。

兄さん、やっぱり「おそ松さん面白かったよな?」って
それが気になるんだね。面白かったよ。
タイトルロール*1おつかれさま。

イッチが自分の口で「寂しいかも」と言ってくれてうれしいよ。
そしてきちんとお礼が言えるトドちゃん、可愛い末弟。

「おそ松さんは永遠に不滅でーす!」
以降の台詞を、私が残したいので書き残し
おそ松「いつかまた会いに来ても、いいよな?」
カラ松「俺たちの永遠に乾杯…セラヴィ!」
チョロ松「絶対にまた会いましょうね、本当だよ!」
一松「俺も……また会いたい」
十四松「また遊ぼうよ!バイバーイ!」
トド松「寂しくなっちゃうな…またね!」

次回作を示唆……ということよりなにより
27年ぶりにまた世に出てきて暴れまわった君たちが
私たちとの出会いを楽しんで、喜んでくれた。
そのことが何よりうれしかったよ。

作り手が本気で楽しんでそれがうまく噛み合うと
こんなに人の心ゆさぶるものができる。
おそ松さんに教えてもらったことかな。

「これでいいのだ」とは言わなかった、2015年のおそ松たち。
おつかれさま、ありがとう!
君たちの生活がまだまだ想像できる結末でよかった!

またね!

*1:タイトルロール:作品名を背負う配役

プレゼント

むつごが私にくれたもの 月曜夜中の笑い死に
むつごが私にくれたもの 同人イベント行く勇気
むつごが私にくれたもの たまったメイトのポイントカード
むつごが私にくれたもの 推しと地雷という概念
むつごが私にくれたもの スカイプ始めてみる契機
むつごが私にくれたもの アニカフェ予約の予備知識
むつごが私にくれたもの 愛しい自作の痛いバック
むつごが私にくれたもの 明日も会社に行く元気

大好きだったけど 最終回くるなんて
大好きだったけど 最後のオンエアー
bye bye my sweet matsuno 全力待機するわ

おそ松さんOP曲に共通する「食べる」ということ

もう語り尽くされてそうなことだけど
『はなまるぴっぴはよい子だけ』にも『全力バタンキュー』にも
「食べる」比喩が出てくるんだよね。

ぴっぴは「よろしくおあがり」で
全バタは「いざナイフとフォークで いただきます」なんだけど。
ぴっぴは提供する側で、逆に全バタでは出されたのを食べて「満足だ」と。

全バタの「いざナイフとフォークでいただきます」
という歌詞はずっと引っかかってて。
この曲、怒涛の死語祭りなのにここは元ネタが見当たらないんだよ。
つまり、死語がらみでなくても「食べる」描写を入れる
意味というか、意図があったんじゃないかなぁと。

食べることは生きること、というのは私わりと一貫して持ってる見方で
それとは別に食事は「消費」の象徴だとも思っている。
結局切られて刺されて食べ散らかされる運命なんだけど
それでも血と肉になりましたか?なりましたよね?と言う
問いかけだったら面白いなぁという、深読みとも言えない妄想。

だって本当にわざわざナイフとフォークって言う理由がピンとこないんだもん。
逆に言えば、何故箸やスプーンでは駄目だったのか。
そう考えるとナイフは「切る」、フォークは「刺す」という動作があるんだよね。

あ、でもよくよく考えると「おそまつさん」という言葉は
普通は提供した側のセリフだな。
となると、食べてもらえたことに対する「満足だ」の可能性もあるのかな。

やっぱりこの2曲に共通するキーワードには
身を切って私たち視聴者(=消費者)を満たすという
比喩があるのかもしれない。


ちなみに、もし何か私の気づいてない元ネタあるようなら教えて欲しいです。

松にハマった過程を今のうちに振り返る。

初めて見たのは昨年末。年末年始にアニメを一気見しようと思って
dアニメストアに登録したのがきっかけだった。
本当はゆゆゆを見ようと思っていたのだけれど松が目に止まり
viratter*1などでたびたび「ご当地ぴっぴ」を見かけていたこともあり
リアタイでアニメを追いかける気力はないけど
ちょうど放送終わるころだろうし、と気軽に見てみた。
(その後12話まで見て「2クール目あるんじゃねぇかあぁぁぁ!」と叫んだのは内緒)

主題歌がすごく気に入った。ポップなのにアンニュイで物憂げ。
OPアニメも彩度抑えめのポップな感触。

本編は、1話は「これviratterとまとめで見たやつだ!」という感じ。笑
2話はとにかく握手会を妨害した兄さんが許せなかった。
あと、ここだけの話、会話が成立しないカラ松にすごくイライラしていた。

推しを見つけて楽しむアニメだと勝手に認識していたので
「誰だろう、消去法でチョロ松かなぁ」という感じ。
この時はあくまで消去法。まぁ一番喋ってたしね。

作品自体にあんまりピンと来てはいなかったんだけど
オープニングの曲が好きで、またあれ聞きたいと思い
次の話、次の話と見るうちに5話で数字にズッキュン。
一松の自己評価の低さとそれの現れ方なんかにも共感できて
どんどんとハマっていった。

最初のほうは6つ子の見分けがついてなかったのだけど
(アニメ自体ここ数年ほとんど見てなかったので声でも判別できず)
パチンコ警察でズタボロにされていた男の子が末弟だと気づいたとき
その権力による理不尽な暴力が本当に腹立たしかった。

逆に5話のカラ松事変はギャグとして笑ってしまって
一通り1クール目見終わってから
「そういえば扱いがひどいって炎上してたのって何話だったんだろ?」
となったぐらいのレベル。今でもあんまり実感としてピンと来てはいない。
いま思えば、トドちゃんには味方がいなかったのがつらかったのかも。

私はいわゆる日常系アニメが得意でなく
「なにが面白いのかわかんない」と思ってたんだけど
ここまで松にハマってしまったのは
彼らは「愛してるのに」「愛してるから」「殺しあっている」というのが
理由じゃないかと自分では分析してる。

彼らは生きるため、自分の領分を守るため
負の感情をぶつけ合い、貶めあっていた。
心の動きと「アクション」「リアクション」が確かにそこにあったから
見ていて楽しかったんじゃないかな。
何か大層な目的があるわけでもないくせに
彼らは「生きること」に必死だった。真摯だった。

それを包むパッケージとしての
オープニングや背景美術に垣間見える
“不完全な世界”のほの暗さ。

「この世に要るのはよい子だけ」という歌詞や
口から鳥や魚を吐いて崩れ落ちる6つ子。
心を動かされながらも言語化できないで悶々としていた私は
数々の考察ブログさんに助けられた。

社会に適合できなかった者として
6つ子に親近感を抱いて見ていたけど
途中から、彼らのほうが年下だということを受け入れたら
見方も感じ方も変わった記憶。

松と「視聴者と作品」という距離感のままで接することができていたら
また違った発見や感情の変化があったのかも、と思いつつ
それでも渦中に飛び込んで、友人ができ、グッズやゲームで盛り上がり
実況をし、イベントでワイワイできたのは
本当に今までにない体験で楽しかった。
楽しいのが一番だね。

初めてアニメ雑誌なんかも買って
インタビューを読んでは、本当に総合芸術だなと思ったり。
ひとつの作品をここまで掘り下げて考えたことがなかったからいい体験だった。


とりあえず、今なう最終回イブイブの時点での
自分が松にはまった理由考察、自分用書き残し。

*1:人気のつぶやきを教えてくれるツイッターアカウント。@viratter